EVのモータースポーツが熱い。パリダカを何度も制した三菱自動車が、米国コロラド州コロラドスプリングスにあるパイクスピーク山を駆け上がるヒルクライムに出場する。パリダカのガソリン・ラリーレイドから、パイクスピークのEVヒルクライムへ。三菱自動車のモータースポーツ戦略が大きく変わる。


パリダカでは、ガソリンを400~500リッターも搭載して、ターボチャージャーを目いっぱい効かせて砂漠を走る。その道には地雷が仕掛けられ、部族に捕まると身ぐるみはがされるどころか、命も危ない。世界一過酷なモータースポーツといわれるゆえんだ。

聞いた話だが、走っていると道の中央に人が立っていて、「本部からルート変更の指示が来た。ここを曲がって行け」という。曲がると村に導かれた。「何か変だぞ」と思っていると、大勢の村人が襲ってきた。ターボを全開に効かせて、ようやく逃げ延びたという話だが、一つ間違えば、命は砂漠の露と消えていたということだ。そして、こんなダマシは当たり前なのだそうである。

それだけにパリダカには華があった。モータースポーツには華があるが、パリダカの花は真っ赤な紅蓮の炎のような色をしていた。

私は絶対に行きたくないと思いなが、強く惹かれていたので、パリダカが終わってホッとしている。つまり、人を虜にする強い魔力があるということだ。そうしたものには華があるのだが、危ない。

パリダカは、さまざまな要因で継続できなくなった。ホッとした半面、とても残念だ。

98年(たぶん)にプジョーの招待でサハラ砂漠を走り、野営をしたときの砂漠の夜の暗さと不気味な静寂さ、その反対の夜明けの真っ赤な、そして大地を揺るがすような壮大な日の出。きっと、パリダカの戦士たちは、そうした光景の中を毎日走るのだろう。

その光景の中をアクセル全開で走れば、あらぬ世界がポッと現れるに決まっている。人は限りなくちっぽけな存在で、自然は限りなく巨大で恐ろしく、地球は丸いのだと、戦士たちは否応なく知るのである。

そんな世界は、宇宙にでも飛び出さないと見られないと思うかもしれないが、砂漠にはある。

その体験は人を正しい生物に進化させる。パリダカから生還した戦士たちは、宇宙飛行士のように、みな正しくオカシイではないか?

サーキット・レースの時速300キロメートルの世界も同様だ。とくに空気に身体を晒されるフォーミュラーカーやバイクのレースではそうだ。

しかし、そこにあらぬ世界が現れることを語るのはタブーである。それを犯せば死をまぬかれない。ドライバーも、ライダーも、口を閉ざして決して語ろうとしないのはタブーだからだ。

同じことはダイビングでも起こる。フリー・ダイビングの記録保持者であったジャック・マイヨールは、私の問いに、「海の底には竜宮城がある」と、その特別な体験と感覚の現れを語っている。ああ、滑り始めてしまった。

マイヨール氏がまだ存命の頃、あるFM局のライブステージで私は彼と対談をするという名誉に恵まれた。楽屋では、さんざんダイビングの素晴らしさと、そこで起こる感覚の変容を話してくれた。それはそれは楽しい時間であった。

しかし、ライブになればマイヨール氏はきっと当たり障りのない話に終始するに違いない。そう思った私は、ある仕掛けを考えた。

「日本には“浦島太郎” というおとぎ話がある」と切り出した。そして、話のあらすじを話した後、マイヨール氏に謎かけをした。「カメに連れられて海の底に潜った浦島太郎は、そこでいったい何を見たでしょうか」と。

すると、彼は「すばらしく美しいお城を見た」と答えたのだった。そして、それが真実であることが分かるのは、その後のことだった。

うっかり本当のことを語ってしまったと思った彼は、必死になって前言を取り消そうとしたのだ。

海の底の存在を語ることはタブーなのである。タブーを犯したマイヨールは、やがて神に召されることになってしまったと考えるのは、考えすぎだろうか。

乙姫さまがいる美しい竜宮城はある。おとぎ話は真実なのだ。

ただし、海の底までやって来た人間にしか見ることはできない。写真にも撮れない。

なぜなら、そこまで潜った人間の脳内に出現する幻影だからだ。だが、般若心経によれば「空即是色、色即是空」である。幻影もまた存在の一形態なのだ。

私たちは、分析脳の左脳ばかり使って生きている。左脳が納得できないものは、存在しないとみなされてしまう。それは窮屈である。それでは狭い世界しか知ることができない。

右脳が拓く世界があるのだが、それは「科学的ではない」と否定される。科学だって人間が考えた幻影にすぎないことを認めようとしない。

自動車を設計し、生産するのは左脳である。しかし、自動車の楽しみを開花させ、自動車を豊かな存在にするのは右脳である。できれば右脳で発見した自動車の豊かさを左脳で設計できるといい。

これに秀でているのはヨーロッパの人たちである。これが徹底的に不得意なのが日本の自動車メーカーである。

話を戻そう。

パイクスピークの標高は4,301メートル。スタート地点の標高は2,862メートルだから、標高差は1,439メートルになる。距離にして約20キロメートルを一気に駆け上がる。

これまでの記録は、モンスター田嶋がターボをビンビンに効かせて2011年に出した9分51秒278だ。長らく10分の壁が越えられなかったので、大記録である。

EVの参戦は、おそらく92年か、93年が初めてではないだろうか。メーカーはGMである。これを追いかけて94年にホンダの有志チームがコンバージョンEVのEVシビックシャトル(鉛電池)でチャレンジし、記録を塗り替えた。

ちなみに、後に日本EVクラブを設立することになるメンバーが電友1号なる電気フォーミュラーカーをもって、米国はフェニックスのEVレースに参戦し、3位に入賞したのが、94年の3月であった。

その後に、GMとホンダの戦いが続いた。しかし、1999年にホンダのEVプラスが15分19秒91を出した後は、しばらくEVのチャレンジはなかった。

このとき、私はホンダ応援団長としてパイクスピークを訪れた。スタート地点はまだしも、標高が富士山以上の途中の観戦ポイントでは、酸素ボンベを持ってこなかったことを後悔するほどの酸素不足だった。

標高4,301メートルの頂上では、ドライバーはもとより、オフィッシャルも、観客も、スキューバーダイバーよろしく巨大な酸素ボンベを2本も背負って、よろよろと歩いているというのは冗談だが、寒い。スタート地点は夏でも頂上は雪ということはある。観戦にはダウンをお忘れなく。それから頂上では、決して走らないように。ましてや短パン、Tシャツでジョギングなどもってのほかである。酸素不足で凍死するかもしれない。

今年はEVの参戦が7台にもなる。日本からは三菱がレース専用車両と米国仕様のi-MiEVで、塙郁夫氏が専用車で、某チームがTMGのEVラジカルで、モンスター田嶋氏が新開発の専用車両で、それぞれチャレンジする。とくに田嶋氏は、EV部門ではなく総合部門=オープンクラスに出場し、総合優勝を狙う。さすがだ。

おそらく、モンスター田嶋、三菱自動車のレース専用車=i-MiEVエボリューション、TMG・EVラジカルの3車のタイム競争になるだろう。EV部門はまだ手探りの状態なので、誰が勝つかわからない。

そんな折、5月18日に田町の三菱本社でパイクスピーク・チャレンジ発表会が行われた。

益子修社長以下、ドライバー兼商品戦略本部の増岡浩氏、EV要素研究部部長の百瀬信夫氏が出席するという気合の入った発表会であった。

また、TVカメラが20台近くも並び、出席メディアも多く、三菱自動車としては久々のモータースポーツ発表会となった。

WRCをランサー・エボリューションで、パリダカをパジェロでと、三菱自動車はラリー、ラリー・レイドに華々しく挑戦し、数々の成果を上げてきた。しかし、3年前にラリー・レイドを休止すると、それ以降モータースポーツ活動から遠のいてしまった。

それがここに来ての再チャレンジである。しかもパリダカ2勝の増岡浩氏をドライバーに起用するという気合の入れ方だ。何が、三菱自動車に起きたのか。

自動車メーカーがモータースポーツに参戦することには、業界内部には「当然」という声が満ちているが、広く意見を募れば賛否両論がある。また、自動車メーカー間の温度差もあり、まったく参加しないメーカーも、せっかく歴史を作って来たにもかかわらずモータースポーツから撤退してしまったメーカーもある。

参戦しようが、しまいが勝手ではあるが、いずれにしても論理構築はしておいた方がいい。メディアから問われたときに、しどろもどろでは恥ずかしいし、「市販車の技術開発のためです」などといった通り一遍の答えでも困る。モータースポーツの世界の技術と市販車のそれとの乖離など、世間の人々はみんな先刻承知なのだから。だってF1のように1万8000回転も回るエンジンは市販車にはいらないでしょう。

つまり、必要、不必要という実利でモータースポーツを語るのは無知蒙昧で恥ずかしいことなのだ。

スポーツは人間といわず生物であれば、みな行う。歴史を紐解けば、古代エジプトをさらにさかのぼり、旧石器時代から人間はスポーツをしていた。その行為をスポーツと呼ぶようになったのは、つい最近のことにすぎない。

では、人間はスポーツを必要、不必要でやっているのか。ロンドン・オリンピックは、必要、不必要でやるのか。そんなわけはないだろう。

人間の行為をすべからく実利、必要、不必要ですべて片づけようというのは、無知蒙昧である。そうした合理で語り尽くせない存在が、そもそも人間であり、スポーツとはその人間の行為なのだから、「XXのため」とか、「XXに役立つから」とか、そうした合理的な答えなどないのだ。

しかし、スポーツを企業活動でやるとなると、そうとはいえない。合理で構築され、合理的な活動が求められているのだから、スポーツをやったり、支援したりするには、企業には合理的な説明が求められる。

ことモータースポーツに関しては、ヨーロッパの人たちは企業に寛容である。なぜなら、モータースポーツが生活の一部に組み込まれているからだ。サッカーほどかどうかは知らないが、モータースポーツもそのようなものなのだ。

それに対して、ガチガチの記者が「なぜモータースポーツをするのだ。合理的な説明をしろ」などと無粋な質問はしないのである。「なぜサッカーのスポンサーになるのだ。合理的な説明をしろ」とはいわないように。

ところが、モータースポーツが市民権を持たない日本では、記者からきつく咎められることがある。受けて立つ自動車メーカーは大変だ。なぜなら(ヨーロッパでは)あたりまえのことを説明しなければならないのだから。

記者諸君には、そうした質問は、「なぜ日本人は箸を使うのだ」という質問に等しいことをご理解いただきたい。説明できないわけではないが、「伝統です」とか、「生活習慣です」という説明ではきっと納得されないであろうから。

あたりまえのこと(それは生活習慣であり、文化であり、伝統である)を説明することほど、厄介で、大変なことはない。

三菱自動車に起きたこととは、EVの文化創造活動なのである。文化に合理的な説明は不要だ。

益子修社長を初めとして、パリダカ優勝経験者=増岡浩氏も壇上に登っての華やかな発表会。ワクワクするi-MiEVエボリューションのアンベール。勝つか、負けるか。ドキドキするチャレンジ。

そうしたことを三菱自動車はこれからやろうというのだ。いいではないか。大いにわくわくさせてほしい。

文:舘内端