日本EVクラブのHPには、ジャメコがあふれている。今回は、このマイクロEVの点描である。
ジャメコとは、ジャメ・コンタント・オマージュのことである。初期型のⅠと量産型のⅡがある。いずれも原動機付き四輪車のカテゴリーに合致しているので、ナンバーが付けられ、普通自動車の運転免許があれば公道で乗れる。
教材として売ってもらえないかというご要望に応えて、量産型の試作車を製作した。それがⅡである。7月1,2日に長野県の原村で発表・試乗会を開催する。参加は無料である。ただし、試乗をご希望の場合は申し込みが必要だ。
製作の目的は、EV教育である。ジャメコをお求めいただいて、分解・組立教室を開いていただき、多くのEV
理解者を育てていただけると嬉しい。社内教育の教材として、EV事業を始めるための教材として、自動車専門学校等の教材としてお使いいただけるとありがたい。
オマージュというからには本物がある。それは1899年に人類史上初めて時速100キロメートルの壁を破った乗り物であった。その種類は自動車、その形態は電気自動車であった。
ちなみに“ジャメ・コンタント”とは、“決してあきらめない”という意味のフランス語だそうである。
本物ジャメコは、人類史上最初に時速100キロメートルを超えた乗り物であった。それは蒸気機関車でも、蒸気船でも、飛行機(当時はまだ存在しなかった)でもなく自動車であり、エンジン自動車でもなく、蒸気自動車でもなく、電気自動車だった。
電気党党首だと自認する私としては、ジャメコの墓参りをしたいほどである。
と思っていたら、思わぬ機会に墓参りができた。09年のフランクフルト・モーターショーのミシュランの展示ブースにレプリカが出展されていたのだ。私は二礼、二拍手、一礼し、ジャメコに乗って人類史上最初の時速100キロメートルを達成したカミーユ・ジェナッツィ氏の冥福を祈った。
ちなみにこのレプリカは、通常はフランスのクレルモン・フェラン市にあるミシュラン本社に展示されているそうである。本物は1899年にミシュランタイヤを履いて時速100キロメートルを出したということは、このときすでにミシュランのタイヤは、重い電気自動車の重量に耐えて時速100キロメートルを超える性能と信頼性をもっていたということになる。1899年とは明治31年だ。日本ではまだチョンマゲを結って、帯刀し、武士は歳になると皆切腹をして果てていた時代である(冗談です)。
クレルモン・フェランには思い出がある。
この古い町は、パリの南、フランスの中央に位置する高台にある。この街にはシャレード・サーキットがありF1GPが開催された。という話は、故中村良夫氏の「グランプリ」で読んで知った。
元ホンダのF1監督であった中村さんのご自宅は、世田谷区羽根木にあった。羽根木公園に隣接した静かな高級住宅地である。その近くに私の事務所兼日本EVクラブの事務局があった。
羽根木公園でジョギングするのが日課だったが(ウソ)、そんな折、派手なフェラーリの紅いジャンパーを着て、スーパーのビニール袋を提げた小柄なお年寄りがポコポコと歩いているのに遭遇した。
「中村さんだ!」と直感した。見たこともないフェラーリのジャンパーは、じかにエンツォから貰ったのに違いない。声をおかけすると、「ホイ」とお答えになった。「はい、はい。舘内さん」と気楽に話しかけていただき、近くのベンチに座ってしばらく羽根木公園と最近のF1の話をさせていただいた。
中村良夫さんの甥が近くに住んでいた。同じ中村さんという。日本EVクラブの会員で、甥の中村さんを通して良夫さんの話を良く聞いた。中村さんはエンジニアでありながら、F1を、モータースポーツを、自動車を文学として語ることのできる数少ない自動車人であった。
著書の中で氏はキース・ダックワースとのエンジンをめぐる話を紹介している。ちなみに中村さんは当時バリバリのエンジンの技術者であり、キース・ダックワース氏は、コスワース社というレーシング・エンジンの製造メーカーの創立者の一人であり、生粋のエンジン・エンジニアである。
コスワース社は数々の名レーシング・エンジンを製造したが、とくにDFV(ダブル・フォアー・バルブ)と呼ばれたF1用3リッターエンジンは、70年代から80年代の長きにわたって多くのチームに愛用され、優勝は数限りなかった。
中村氏がダックワース氏に、「エンジンの燃焼状態を知る方法は....」と聞くと、ダックワース氏は「排気音だ」と答えたという。そして、その話に中村氏は頷くのである。F1という世界最高峰のエンジン技術が競われる世界で、エンジンの調子を知る方法が排気音であり、それが判別できる聴力が大事だというのは、知らない人にはびっくりする話かもしれない。
しかし、どんな世界でも最高峰の世界は、やたらの測定器では測定不能な世界なのである。それよりも人間の五感が優れた測定器になる。
だが、世界最高峰の測定器となれば別である。なぜならそのような測定器の精度を測定するのは五感であり、すぐれた五感をもった職人によって作られているからだ。
科学も技術も、人間が作ったものである。人間に限界があるとすれば、科学にも技術にも限界があることになる。盲信はいけない。
中村氏の質問に迷わず“聴力”という五感の大切さを持ち出したダックワースも凄ければ、それに頷いた中村氏も超一流である。ちなみに中村氏は東京大学工学部航空学科(原動機)卒業のバリバリエンジニアである。
測定器に頼ったり、その数値を鵜呑みにしているうちは一流ではない。少なくとも勝てるF1エンジンも、シャシーも作れない。
中村良夫さんのような人が、生産車の分野にもモータースポーツの世界にも、たくさん存在していれば、日本の自動車産業とモータースポーツは、今、こんなに苦しまなくて済むと思うのだが。
自動車もモータースポーツも、それを文化として、文学として語りえなかったことが、現在の自動車とモータースポーツ衰退の原因だと思う。
一方で、文学として語るに十分な国産車も国内モータースポーツも数少なかったことがまた、自動車とモータースポーツの批評が脆弱であった原因でもある。
作品と批評は双子である。どちらかが病むとき、片方もまた病んでしまうことが多い。
中村良夫さんは鬼籍に入り、甥の中村さんは小笠原に終の棲家を建てて、東京を去って行った。私は空気の悪い東京で、脂ぎって人ごみにもまれながら現役を続けている。
次にクレルモン・フェランと出会うのは98年のことであった。ミシュランは、この年、エコカーラリーである第1回のチャレンジ・ビバンダムを開催した。日本EVクラブの製作したコンバージョンEVであるEVミゼットⅡが、このラリーに招待されたのだった。はるばるダイハツEVミゼットⅡをもってフランスに旅立った。
だが、ドゴール空港で私たちを待ち受けていたのは、空港職員のストライキであった。私たちは急遽鉄道を使って450キロメートルも離れたクレルモン・フェランに行かなければならなくなった。パリの中心部から南東、セーヌ川右岸にあるリヨン駅から深夜特急に乗った。到着は午前3時であった。それでも、もちこんだ角瓶の栓を開けて始まった寝台車での深夜のパーティはことのほか楽しかった。
3度目のクレルモン・フェランとの出会いは、ジャメコ・オマージュⅠを製作したときであった。資料をお願いしにミシュラン・ジャパンにおじゃましたときであった。
モータースポーツの黎明期、1900年から05年までヨーロッパではゴードン・ベネット杯が開催された。その第6回大会がクレルモン・フェラン近郊の1周549キロメートルの公道で1905年に開催された。
おじゃましたミシュラン・ジャパンには、当時の資料が取り揃えられていた。本を開き、フランス語を読むと(ウソ)、その様子が活写されていた。
私は日本とヨーロッパの圧倒的な格差に驚愕し、自動車を作ったのは彼らだと強く思わせられた。
自動車を作るとは2つの意味がある。ハードとして自動車を生産するという意味と、ソフトとして自動車の意味を作る=文化を構築することである。この2つを作って、初めて自動車を作ったことになる。
現在につながるガソリンエンジン自動車が1886年(明治21年)にドイツで発明されて13年後に、パリ郊外のブローニュの森でスピード競技が開催され、ジャメコが時速100キロメートルを突破し、それから1年後には壮大なラリーであるゴードン・ベネット杯が開催されたのである。それらは優れた自動車普及・啓発活動になった。
戦後に本格的な自動車生産を始める日本の自動車産業には、文化を構築する余裕もなく、その必要性も感じていなかった。
それでも自動車が普及したのは、占領軍たちの乗り回した大きな米国車が存在したことで、需要が目覚めていたからであり、戦後の復興期に重なったからであり、ヨーロッパから部品を調達して組み立てるだけのノックダウンという生産手法が可能だったからだった。
労せずして日本の自動車産業は自動車を普及することができた。しかし、それは文化を欠いた片肺飛行での離陸だった。
そして現在、日本の自動車産業は、「免許を取ろうよ」と、ようやく自動車の普及・啓発活動を始めたのである。だが、初めの経験であるために、自動車普及・啓発活動はまだ稚拙である。
その2につづく
文:舘内端