日本には超一級の自動車を作る技術も、設備も、人的・物的資源もある。それらはいずれも世界に誇れるものだ。だが、自動車を作る意味が失われて久しい。自動車の意味の生産においては、日本は世界に誇る何物ももってはいない。
意味を失った自動車生産の現場では、経済原理だけが大手を振って闊歩している。自動車を作るとは、ムダを省くことだと。私たちは、もう一度自動車を作る意味について考え、意味を再構築しなければならない。
ただし、あまり難しく考えなくともいい。自動車造りが楽しいと思えればいい。まずは楽しさの奪還だ。
かつて自動車メーカーの部課長さんたちを、大喜びさせたことがあった。電気カートの組立教室である。降りしきる雨の中、自分たちで組み立てた電気カートを夢中になって走らせたのだった。カートから降りた彼らの顔は、子供のそれであった。
98年の春。某タイヤメーカーの協賛を得て、電気カートを5台作った。名前は“ZEK”とした。ゼロ・エミッション・カートの略だが、“絶句”と呼んでもらってもかまわない。乗った人は皆加速の良さに絶句するのに違いないからだ。
それはともかく、ZEKをゼロから組み立てる教室を開こうとなった。対象は自動車メーカーの部課長だ。某タイヤメーカーの販売促進になること間違いない。
しかし、某タイヤメーカーに危惧がなかったわけではない。自動車メーカーの部課長といえばエリートである。彼らに電気カートを組み立てさせるのは子供だましで失礼ではないかと。
私はいってやった。「自動車メーカーの人間で自動車を作ったことのある人はいないから、みんな喜ぶに決まっている」と。
自動車メーカーとは分業の団体である。ハンドルを設計したことのある人はいても、同じ人がエンジンを組み立てることはない。エンジンといっても、ピストンは設計してもカムシャフトは専門外だったりする。設計から部品調達、部品の製作、そして組み立てまで。すべてやったことのある人はいない。
つまり、自動車メーカー人とは自動車を作らない人たちの集団なのである。だが、自動車は工場で生まれる。不思議でならない。
一方、ごくごく小さなレーシングカー製造メーカーに勤めていた私は、幸か不幸か、すべてをやらなければならなかった。資料を集める。設計図を描く。部品図をもって旋盤屋に行き、製作を発注し、間に合わなければ会社の旋盤で自ら部品を製作する。サスペンションの溶接をして、アルミフレームのリベットを打つのはあたり前だった。
ボディはやっかいだった。マスターモデルの原型はデザイナーが作るが、表面の研ぎはやらなければならない。マスターモデルといっしょに指の先も研いでしまい、指紋が消える。そしてFRP。臭いわ、ベトベトするわ、削るとガラス繊維が細かくなってからだじゅうに刺さってチクチクするわで、たまらなかった。
それだけではない。完成したレーシングカーをトラックに載せ、サーキットに運び、エンジンを調整し、タイヤの空気をチェックし、サスペンションを増し締めして、ラップチャートを付け、クラツシュすれば徹夜で修理だ。
おそらくガソリン自動車を発明したカール・ベンツも、トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎も、本田宗一郎も、ヘンリー・フォードも、ロータスの創業者であるコーリン・チャップマンも、みな溶接をして、板金して、ボルトを締め、走行テストをしたのであろう。良い時代であった。
やがて自動車の生産は、ヘンリー・フォードによって大改革を受ける。流れ作業による大量生産である。これは一人の職人がコツコツ作る手作りから、大勢の労働者が作業を分担して生産する分業制への移行であった。このときから、自動車を造れる人は自動車メーカーからいなくなった。
こうした分業制による大量生産が発明されなければ、少なくとも私はマイカーを手に入れられなかったはずである。しかし、だから不幸だったとはいえないところが、自動車の輝く時代が終わったことを示しているのではないだろうか。
それはともかく、大量生産を否定するものではない。だが、失われた自動車造りの楽しさは、どこかで再生しておく必要があるだろう。
そんな思いから、手作り電気カート教室を某タイヤメーカーに提案したのだった。
午前中の教室は、格調高い自動車論の講座だったが、午後は5人ずつの班に分かれてZEKを組み立てた。フレームは完成しているが、モーターも、コントローラーも、バッテリーも、シートも、タイヤも取り付けられていない。それどころか、配線もできていないので末端に丸端子を圧着する作業も行わなければならなかった。
各班にはそれぞれインストラクターが付いたので、作業は困ることはなかった。しかし、管理職の部課長たちは入社時の工場実習以来の手作業であり、慣れない手つきであった。
すると雷が鳴りはじめ、激しい雨が降り始めた。試乗は無理だと思った。それでも乗るかと問うと、全員が目をまん丸にして雷雨の中を「乗る!」というではないか。
その勢いに恐れ入った私たちは、すぐにクルマを飛ばしてコンビニで雨合羽を手に入れた。
完成したZEKを前に、合羽を着るのももどかしく、部課長さんたちは、次から次へと豪雨の中をコースに飛び出していった。
大変に面白く、楽しく、ためになった。彼ら全員の感想であった。腰をかがめての作業であり、合羽は着たものの雨に濡れた試乗であったにもかかわらず、みなさんに感謝された。きっと一生の思い出になったに違いない。
自動車は乗るのも、作るのも、楽しかったのだ。そんな原初的な自動車の楽しさという価値を、私たちは忘れかけている。それは健康ではない。
ジャメコⅠは、世田谷区の依頼で製作した。世田谷区が主催する「芸術百華」というイベントに電気自動車を作って(芸術的に)参加しなさいという日本EVクラブに対する要請であった。
そこで私が思いついたのが、ジャメ・コンタントの復活劇であった。環境・エネルギー問題という未曽有の大問題に直面している現在にこそ、電気自動車の元祖でもあるジャメ・コンタントは蘇るべきだという内容である。
劇はジャメ・コンタント・オマージュの組立から始まる。舞台の右では、3人のスタッフがフレームからジャメ・コンタント・オマージュを組み立てている。その様子はハンディビデオカメラで撮影し、舞台の大きなスクリーンの右側に映し出される。
舞台の左手では、私が人類の誕生から今日までのモビリティの歴史をパワーポイントによる映像をスクリーンに映し出して語っている。数万年前にアフリカの草原で生まれた現世人類のモビリティは自分の足であった。だが、すぐに馬を手に入れたことはラスコーの壁画が示していた。やがて葦でカヌーを造り、一説によれば現在のペルーから南西諸島へと風に乗って移住したという。
帆船を発明して世界の海を征服した西洋は、近代に入り蒸気船を発明する。陸上では蒸気機関車が走り始めた。飛行機が発明されたのは20世紀初頭のことであった。その頃、陸上ではガソリン自動車が走りはじめていた。
といったモビリティの歴史を概観するあいだに、舞台右手ではジャメコⅠが完成していた。やがて時速100キロメートルを記録したジャメコは、ブローニュの森で深い眠りについた。王子様が現れるまで覚醒しないのだ。
えっ、スリーピング・ビューティ=眠れる森の美女のかっぱらいかってか。その通りである。バレエ・スリーピング・ビューティーをパリ・オペラ座で、英国ロイアルバレエで、ロシアのキーロフバレエでと、何度も見た私は電気自動車の劇で一度、やってみたかったのだ。
深い眠りについたジャメコには、ツタが幾重にも絡みついていた。と、そのとき雷鳴が鳴り響き、舞台は暗転した。暗闇で雷が鳴り、その一発がどうやらジャメコに落ちたようだ。
するとジャメコの目が赤く光り、何度も明滅した。ジャメコは100年の眠りから覚めたのだ。
だが、ジャメコはあのジャメ・コンタント・オマージュⅠではなく、月面探索車に変身していた。地球文明を崩壊させてしまった人類は、次に崩壊させるべき地として月を選ぶべく、月面探査用EVを月に送り込んだのだ。西洋近代のなれの果てであった。
舞台左手では、なぜ人類は月に行ったのか。その理由を私が説明していた。
ヨーロッパであぶれた西洋人たちは、次なる開拓地として米国を選び、上陸すると西へ西へとインディアンを征伐しつつ米国大陸を渡っていき、ついに桃源郷のカリフォルニアを発見するのだが、欲望は果てしなく、さらに西に進もうとした。
しかし、そこには太平洋が広がるのみであった。窮地に陥った西洋人は、「そうだ。まだ月があるではないか」と、パイオニアワークの継承先として月を選んだのであった。だが、そこが不毛の地であることに気づくのに時間はかからなかった。もう人類が欲望を拡張できる地はなかったのだ。
拡大に次ぐ拡大、成長に次ぐ成長を可能にしたのは、地球の資源と環境の負荷能力の高さであった。だが、限界がやって来た。これ以上の拡大も成長も不可能である。もうフロンティアはないのだ。
同じことがグローバリゼーションの中で、アジア・南米で起きている。賃金の安い国を探して、自動車メーカーは中国、タイ、インドネシア、ベトナム、インドと工場を移転している。だが、もう新たな低賃金の地はない。残っているとすれば、南極と北極である。そこは月と同じ不毛の地である。
心配しなくていい。そのころになれば、もっとも賃金の安い国は日本である。高級車マーケットをドイツに奪われ、すべての自動車工場を海外に移転させてしまい、空洞化した日本はギリシャの二の舞を演じ、最貧国に陥ったのだ。やがてアジアから南米から工場建設の依頼が舞い込むようになったのである。
そうして生まれたジャメ・コンタント・オマージュⅠは、各地の展示会にお招きいただき、何度も分解、組立を実演した。人はこれを“ジャメコ解体ショー”と呼んだのだった。
そうした折、教材として売ってもらえないかという話を多くの方からいただいた。200万円から300万円というと、ほとんどの方が「安い!」との仰せである。話半分、いや4分の1としても数台から10台ほどのご注文はいただけそうだ。
ということで、さらに性能をアップし、見栄えも良くして、コストダウンを考えた量産タイプのジャメ・コンタント・オマージュⅡを製作したのである。
日本EVクラブのHPでご覧いただけるが、フレームとサスペンションはステンレス製である。ビカビカと眩しいほどに輝いている。
すべて組立キットである。教材として何度も分解、組立を行うために、まずは購入者に組み立て方をお教えしなければならない。部品製作が終わったら、購入者にお集まりいただいて、組立教室を開催する。インストラクターが付くので、組立作業で困ることはない。
日本EVクラブは電気自動車を中心としたエコカーの普及・啓発を行う市民団体である。電気自動車を販売するのが主目的ではない。
ということで、ジャメコⅡの部品を製作し、教室を開催し、広く人材を育成したいと思う個人、団体を募集している。
ご希望の方は、日本EVクラブ事務局までご連絡下さい。
文:舘内端