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舘内端の「自動車の力」:第3回「電気自動車でご飯を炊こう その2」
第3回「電気自動車でご飯を炊こう その2」
電気自動車は電力供給が逼迫しているいま、使うべきではないという意見がある。ごもっともである。
と、私が電力事情と電気自動車について知らなければ、思わず頷いてしまうところだ。
世の中の多くの人が電力は足りず、電気自動車はたくさん電気を食うと思っている。EV系のミニフォーラムや試乗会では、必ず出る質問だからだ。
それは湯水のように使えば足りないに決まっている。だが、昨夏と今冬で停電は起きなかった。上手に節約すれば足りそうである。
では、電気自動車は電気をどれくらい食うのか。私も疑問だったので10数年前に調べた。その結果は、日本の自動車のすべてが電気自動車になっても使う電力は、発電設備能力のたった6%でしかないというものだった。電力会社も自動車メーカーも、同じような試算である。
現在、日本の電気自動車保有台数はおよそ1万台。エンジン車の保有台数はおよそ7500万台だから、0.013%だ。この程度の台数が充電したところで停電が起こるとは信じがたい。
ということなので、電気自動車のユーザーは安心して充電してほしい。ただ、それでも電力使用量が少ない深夜に充電するという気遣いはほしい。
もう少し分かりやすくいうと、こうなる。1日の電気自動車の大方の走行距離は30キロメートルである。この距離を走って充電すると、電気代は深夜電力契約では30円ほどだ。同じ30円の電気代であると、1000ワットのヘヤードライヤーを4時間使える。
こんな時代に電気自動車を使うとはけしからんというご意見は、そのまま「こんな時代にヘヤードライヤーを使うとはけしからん」と言い換えることが出来そうだ。
これを拡大解釈すれば、「電気釜も使うな」、「TVも見るな」、「エアコンは止めろ」ということになる。昨夏は実際にそうだった。
さらに踏み込めば、こんな時代に電気釜やらTVやらエアコンを使っている人をみんなでチクリ合おうということになって、ナチ時代のドイツのように国民相互監視社会になる。なんだが殺伐とした世の中にしてしまうのはやめたい。社会とは信用の連鎖、信頼の絆で成り立っているのだから。
チクリ合いが事の本質ではないことはお分かりだろ。チクリ合いをして大衆諸君がいがみ合うのは、まさに政府と電力会社の思うつぼである。敵を見失ってはならない。
だからといって、電力会社のいうことが本当で電力事情が厳しいかどうかも、原発がどうのこうのも別にして、やはり湯水のように電気を使うのは控えたい。電気を使うことは、何らかの負荷を自然にかけているのだから。そして、自然こそが私たち生命の命の元なのである。
ドリフトします。
今日、つまり12年4月14日の午後、千駄ヶ谷の東京体育館の近くで、ランチパーティーを催した。主催は日本EVクラブ、ゲストはミラEV1000キロメートルにチャレンジしたドライバーのみなさんである。会費は4000円だった。
スタッフを入れて20名ほどという小さなパーティーだったが、とても気持ち良いものとなった。
ミラEV1000キロメートルチャレンジは、10年5月23、24日に筑波キット内のオートレース選手養成所のオーバルコースで行われた。ミラEVで1充電1000キロメートル走ろうというチャレンジだ。スタート前の1回の充電で1000キロメートル走ってやろうという野望なのだ。走りきれれば、世界記録達成である。
で、結果は大成功だった。よし、ギネスに登録しようと必要書類を揃えたのだが、なんと提出したのが12年1月。認可が下りたのが1カ月後の2月。ずいぶんと申請が遅れてしまったが、私たちはEVの1充電航続距離世界記録ホルダーとしてギネスに認定されたのである。だったらパーティーだということになった次第である。
ご参加いただいたみなさん、ありがとう。用事で出席がかなわなかったみなさん、おかげで記録達成です。ありがとう。
でも、どうしてみなさんは26時間もかけて、中には一睡もしないで、夢中になって走ったのでしょう。
いや、それをいうなら、そんなバカらしいイベントを仕掛けた私が、まずはPTAの査問委員会にかけられるべきである。年恰好は大人だが精神年齢は子供たちの教育にまずいと。
昨今、いじけてバカなことをする人たちが減ってしまった。合理的で、効率が良く、安全なパイを振って、今日一日無事に過ぎゆくことを一杯の焼酎で祝うのもいい。しかし、沈みゆく日本でいじけていても仕方ない。たまにはぱっとやろう。まあ、そんなことが1000キロメートルチャレンジの理由である。それにお付き合いいただけたことが、何よりもうれしい。
私たちは、根拠のないことをやりたがらない。あるいは根拠があることしかやらない。受験勉強も、就活も、婚活も大いなる根拠がある。根拠はあるが、たいしておもしろくはない。ワクワクもしない。
たとえば、安全な国内で病院勤めをしていればいいのに、わざわざ身を挺して紛争地帯に出向き、怪我人や病人を救う行為に合理的な根拠などない。
だが、我々はそんな医者がいることに誇りを持つし、からだの芯が熱くなり、命が蘇ってくるように感じるのは、なぜだろうか。無根拠な行為にそんな力が宿っているとは……。
ちなみに1000キロメートルチャレンジほどには無根拠ではないが、09年11月には東京~大阪途中無充電の旅を成功させている。このときの1充電走行距離は555.6キロメートルで世界記録であった。これもギネスに登録されているので、日本EVクラブはギネス2冠となる。
しかも、2つの記録はいまだに破られていない。
いきなりドリフトだが、私は“フェラーリの力”とは、まさにここにあると思っている。フェラーリとは、無根拠な存在なのだ。
なぜって、あんなものがあっても少しも世の中の役には立たないのだから。
荷物が運べるわけではないし、たいていのフェラーリは2人乗りだ。もう2人乗れるスペースに鎮座ましましているのは、これも何に役にも立たず、ひたすらCO2を排出し続ける5リッター、12気筒エンジンである。これがフェラーリの神であることは論を待たない。フェラーリとは、PTAのお母さま方にとっては、もっとも子供の教育に悪いものの一つに違いない。
しかし、フェラーリには人を元気にする力がある。イタリアF1グランプリのときの、あの熱狂的なフェラーリ・ファン=フェラリスタを見れば一目瞭然だ。
彼らがすごいのは、身銭を切って(それも決して安くない)チケットを買って、サーキットを訪れ、これも自腹でフェラーリの巨大な旗を買って、疲れも見せずに1日中振り続けることだ。まさに献身であり、自らをフェラーリに捧げるのである。
これはフェラリストが、フェラーリに身を捧げることによって自らの命が再生することを肌で知っているからだ。
フェラーリも資本の増殖を行う企業である。しかも米国市場でがぼがぼ稼いでいる。
だが、同じように資本を増殖させることを経営理念に掲げるトヨタにも、ホンダにも、日産にも、フェラーリほどの熱烈なファンはいない。
それは、トヨタもホンダも日産も、フェラーリほどには私たちを元気にしてくれないからだろう。
同じようにF1グランプリのスタンドを埋め尽くす観客の存在があるとしても、フェラーリの観客は自腹であり、他の日本メーカーの観客の多くはチケットを配られた観客である。
このどうにもならない非対称性こそが、実は日本のメーカーがヨーロッパ市場を攻略できない原因だ。
また人の悪口になったから、もうやめよう。というわけで、土曜日のランチパーティーはとても嬉しかった。というところで、今回はおしまい。
文:舘内端
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