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舘内端の「自動車の力」:第4回「電気自動車でご飯を炊こう その3」
第4回「電気自動車でご飯を炊こう その3」
ところで、電気自動車を推進しているというと、必ず原発も推進しているといわれる。電気自動車推進=原発推進派という図式は、電力会社の意図である。というのは、原発の原理に基づいた話なのだ。
ご存じのように原発は発電量の調整が効かない。常に一定の電力を発電し続けなければならない。
一方、人々の活動が減る夜間は電力が余る。発電量も少なくていい。しかし、原発はバンバン発電しなければならない。
この矛盾を解消するのが、揚水発電だ。ダムから流れ出た水を、原発の電力を使ってダムに戻し、翌日の昼間に再び流して発電するというわけだ。しかし、こんな無駄なことをしなければならないのは、原発というシステムがそもそも矛盾した存在だからだ。発電量=出力が調整できない機械が、進歩しているわけがない。
ということで出力調整を試したのがチェルノブイリ原発であった。その結果はご存じのとおりである。
そこで登場するのが、電気自動車である。電気自動車はタクシーで使うのでなければ、夜間は止まっている。その間に充電できれば便利である。その電気には深夜にパワーの余っている原発の電気を使おうということで、電力会社はこぞって電気自動車の普及に邁進してきたというわけだ。
ということで、電気自動車推進派は原発推進派という図式ができたのであった。
ドリフトだ。
出力を制御できないエネルギー源の代表が太陽エネルギーである。ソーラー発電も、風力発電も、お天気まかせであって、人間側では制御不能である。自然にはというよりも、宇宙には人間が制御できないものだらけだといってよい。
時に優しく、時に乱暴な自然から私たちはたくさんの贈り物をいただいている。そして、自然と私たちに介在するのが技術なのである。技術とは、自然から贈り物をいただく仕掛けなのである。
太陽からいただくエネルギーのうち、人類が最初に受け取ったのは、おそらく木を燃やして得られる熱エネルギーであった。最近の考古学の成果によると、200万年も前に前人類が火を使った痕跡を発見したということだ。
それから数百年して風のエネルギーを使って帆船を走らせた。そして、木の燃焼熱と風の力を使う時代が長く続き、ようやく18世紀に至って石炭を、やがて石油のエネルギーを使う技術を発明したのであった。それが地球温暖化をもたらすことになるとも知らずに。
その頂点に原子力技術が位置している。しかし、制御はできていない。もっとも開発が困難な技術は核廃棄物の処理技術である。これは永久に開発できないことを、当の原子力の知見が教えている。
制御が限りなく困難で、失敗すれば人間の命を奪うことはもちろん、生態系を狂わしてしまうのが原子力技術であり、人間のいかなる技術をもってしても核廃棄物の処理は不可能であることを人間自身が知っている。
一方、石油・天然ガス・石炭という化石エネルギーは地球温暖化を促進してしまう。ではどうするのか。私たちが気づきつつあるのが、もうひとつの太陽エネルギーである風の力と、太陽の光の力と、地下深くに蓄えられた太陽エネルギーである地熱である。これらのエネルギーは、いずれも制御が難しい。だが、ここに電気自動車を介在させることで、私たちは困難な自然エネルギーの制御に成功できるかもしれない。そうした新しい時代の入り口に私たちは電気自動車と共に立っている。
また滑ってしまった。本題に戻ろう。
電気自動車は「ご飯も炊ける便利な自動車だ」というのは、電気自動車推進派が、「こんなときに電気自動車は使うべきではない」という意見に対する私の反論である。
そうなのだが、それが持っている意味は広く、深く、かつきわめてパワフルなのである。じっと考えてみれば、ご飯が炊ける自動車の登場は極めて革命的な出来事なのだ。それが本当であれば、これまでの自動車像がガラガラと瓦解していくではないか。
前号で話したように、「電気自動車でご飯を炊こう!」とは、日本EVクラブがせたがや文化財団と共催で演じたパフォーマンスである。私としては、自動車評論家でもあるので自動車批評として作、演出、主演を行ったつもりである。つまり自動車革命児としての電気自動車の認識である。
もちろん、オートキャンプに行けば、自動車のそばでご飯を炊いている景色はいくらでも見られる。しかし、自動車がご飯を炊いたわけではなく、持ち込んだガスコンロやら薪で炊くわけである。
また、エンジンをかけておくという条件であれば、ハイブリッド車でも改造すればご飯が炊けないわけではない。
一方、電気自動車は自分のエネルギーでご飯を炊くことができる。
従来型の自動車=エンジン車でも、改造して大きな発電機を取り付け、これをエンジンで駆動すれば、ご飯は炊ける。しかし、そんな発想はこれまでなかった。また、電気自動車も長い歴史の中で、ご飯を炊く道具として考えられることはなかった。自動車は自動車以外の道具ではなかった。
電気自動車でご飯を炊くといっても、自宅のご飯だけではなく隣家のご飯も炊ける。裏の家のご飯も炊ける。ご近所のご飯はみんな炊けるだけのパワーを持っている。
また、ご飯を炊くだけではなく、洗濯機も回せるし、明かりも点けられ、エアコンも動かせる。しかも近所中でだ。
電気自動車の電池は、75キロワット=100馬力のモーターを回せる力を持っている。一般家庭の平均的な消費電力は通常1キロワット程度である。したがって、この電池であれば75軒の家庭の電気をまかなえる。ただし、リーフの電池であると、75軒の家庭には19分しか電気を供給できないが。
しかし、リーフが100台あればどうだろうか。75軒の家庭におよそ32時間の電気(1キロワット)を送り続けられる。
2020年に電気自動車の生産台数は全生産台数のおよそ10%、1000万台といわれる。これならどうだろうか。災害時にリーフで3日間、1家庭に1日8キロワットアワーの電気を送るとすると、1000万件の家庭に電気を送り続けることができる。
災害時でなくとも、たとえば夏場の昼間の電力ピーク時に、あるいは冬場の夜間の電力ピーク時に、電気自動車から系統電力網に電気を送ることができる。
電力の余る夜間に充電した電気自動車から、上記の電力ピーク時に電気を送ることができれば、発電所をフル稼働せずに済むので、発電所の数を減らせる。減らす発電所に原発を含めることもできる。
現在、行政機関から緊急用の電力供給装置の要望があいついでいる。聞くと3.11以降、ガラリと空気が変わったそうである。警察、消防署、病院、役場、学校などの行政機関や公共施設は、震災時に電力が途絶えると機能しなくなってしまう。小型のガソリン発電機はあるのだが、まったく手入れをせず、使えないケースがほとんどだ。
こうした緊急用電力供給装置=電源の購入にあたっては、価格の3分の2の補助金が出る。それもあって、電源製作メーカーは電源開発に拍車がかかり、セールス諸氏は全国に散って行政、公共施設に売れ込みをかけている。
電力供給装置は、一般的には電池を備えたものだ。直流の電気を交流に変換するDCACコンバーターを備えている。
また、ソーラーパネルの電気を交流100ボルトあるいは200ボルトに変換して、家庭や企業で使えるようにする変換装置にも日が当たっている。
というのも、業者のいうとおりにソーラーパネルを設置すると、発電された電気は系統電力網に戻されてしまい、直接家庭や企業で使えないのだ。
これでは、災害時あるいは停電時に、せっかく自宅のソーラーパネルで発電しても使えず、停電を我慢しなければならない。
電気自動車があれば、そしてそこから100ボルト、あるいは200ボルトの交流の電気に変換して家庭や工場に、さらには系統電力網に供給できれば、世界はがらりと変わる。そんなエッジの効いた時代に私たちはいる。
文:舘内端
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