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舘内端の「自動車の力」:第7回「日本名産トヨタ式ハイブリッド車 レクサスGS450hに乗ってみた」
「日本名産トヨタ式ハイブリッド車 レクサスGS450hに乗ってみた」
その国の電気エネルギーを統括、制御してエネルギー効率を最大にし、停電を防ぐのがスマートグリッドである。これを家庭内で行うのがスマートハウスである。
これを自動車の中で行うのがハイブリッド車なのだ。つまり、ハイブリッド車とはスマートカーなのであり、上記のシステムを先取りしている。スマートグリッド、スマートハウスはハイブリッド車から始まったということもできる。
さて、エネルギーの獲得とは自由の獲得だが、これを個人が行えるようになると、国家の統制の一部、それもかなりの部分が崩壊する。なぜなら「そんなことを言っていると電灯線を切るぞ、ガソリンを配給制にするぞ」という恫喝が効かなくなるからだ。これは国家権力側にとって由々しき事態だ。エネルギーの自由な生産は取り締まられて当然である。
個人が電気エネルギーを自由に入手できるようになると、電力会社の「電力価格の決定は、電力会社の義務であり、権利である」というお題目が意味をなさなくなる。今回の「値上げを飲むか、さもなくば電気を止めるぞ」という脅しが効かなくなり、「勝手にすれば....」といわれておしまいだ。
つまり、ソーラー発電は電力会社や国家にとって、彼らの統制権が失われるということであり、きわめて憂慮すべき技術なのだ。国家転覆技術とはいわないが....。
これが、政府と電力会社が自然エネルギーの導入と増大に難色を示すほんとうの狙いだ。前回にも触れたが、エネルギーの獲得とは生命の維持であり、生きる自由の獲得なのである。利権が争われて当然なのだ。
もっともその陰に原発推進があり、これこそ技術集約型であり、巨大システム型、ソーラー発電の対極の権利集約20世紀型エネルギー装置であり、個人が手を出しにくいエネルギー装置である。それだけに国家も電力会社も、権益を確保しやすい。だから、絶対に手放そうとしない。
原発の対極にあるのが、個人が容易にエネルギーを創出できるソーラー発電である。原発とソーラー発電とは犬猿の仲であり、20世紀型エネルギー技術と21型エネルギー技術の対決となる。
重厚長大にして集約型の技術は、いったんトラブルが起こると、技術とシステムの規模に応じて被害が甚大になる。しかも深刻なトラブルとなる。この代表が原発であり、いわば20世紀型の技術である。
一方、ソーラー発電は、システムの規模は小さく、トラブルが起きても被害は少なく、範囲も狭い。21世紀型のエネルギー分散型技術である。
こうして電気エネルギーは、個人が発電して個人が消費する自由の道が開かれつつある。
すでに8年ほど前から、ソーラーパネルと小型風力発電機と定置型電池を組み合わせて、電気エネルギーの家産家消を可能にし、東京電力の電線を引かないで生活している日本EVクラブの会員がいる。
また、茨城県の会員は、ソーラーパネルからの電気を系統電力網に接続せず、自分の工場で消費するように勝手に変えてしまった。もっとも現在では、それが可能なように変えられるシステムが市販されているということだが。
だが、石油エネルギーはそうはいかない。自分で石油代替の液体エネルギーを手に入れるにはバイオ燃料製造という手を使うしかないのだが、かなり厄介である。その装置は、ソーラーパネルの工事のように1日で終わるわけではない。
石油代替が難しい代表がエンジン自動車である。エンジン自動車は石油のくびきから自由になれず、つねに産油国と大手石油メーカーのご機嫌をうかがわなければならず、彼らにそっぽを向かれたり、石油獲得戦争に敗れたり、石油供給が陰ったりすると、たちまち移動の自由を奪われる。現在もガソリン価格の高騰で、すでに移動の自由の一部が奪われつつある。
そこに登場したのがハイブリッド車だ。ハイブリッド車の技術は20世紀型と21世紀型の中間である。まさに20世紀技術と21世紀技術のハイブリッドである。
それだけに現状のインフラ(ガソリンスタンド等)を使え、大変に便利である。私たちに意識改革も、ライフスタイルの変革も要求しないので、とても受け入れやすい。ただし、20世紀型であることの限界ももっている。
メリットは、繰り返すと20世紀型の社会システムがそのまま使える点だ。それらはエネルギーのインフラ(ガソリンスタンド)であり、整備システムであり、道路システムであり、JAF等の救援システム等である。しかも省エネである点だ。社会にも個人にも、システムや意識の変革を要請しない。これは、電気自動車とまったく逆である。
ハイブリッド車は、20世紀型の燃料補給システム=ガソリンスタンドで容易にエネルギーを補給でき、1回のエネルギー補給で長い距離を走れるので、大変に便利である。そう思われているし、そのことに間違いはない。
その結果、国内ではすごい勢いで普及している。トヨタのハイブリッド車戦略は大成功である。
ちなみにレクサスブランドのハイブリッド車比率は70%におよぶ。また、ホンダ車でも50%近い。この勢いが続けば、2020年時点では販売店に陳列される新型車のほとんどはハイブリッド車になるだろう。
えっ、わが社にはハイブリッド車モデルはないし、作る技術もないってか? ウーン。2020年には廃業だな。
しかし、石油の供給は今後にかなり絞られてくる。2020年には世界最大の石油産出国であるサウジアラビアがあと2国必要になるほどに需要は伸びるが、供給がまったく追いつかないからだ。
ハイブリッド車は、いかにガソリン消費量が少ないからといっても、この石油のくびきから自由ではない。次第に“便利”な自動車ではなくなる。ハイブリッド車は移動の自由の確保において、他のエンジン車(ダウンサイジング、ディーゼル車)と同様に限界があるということである。ただし、石油供給がかげるまでは最高の省エネ車であることは確かだ。
ハイブリッド車のシステムは、スマートホームと似ている。とくにホンダが発表したスマートホームシステムに大変によく似ている。ただし、給湯機能があるわけではなく、風呂に入れるわけではない。念のため。
ところで、上記のホンダスマートホームの中心的機器は何だろうか。ソーラーパネル?、ガスエンジン?、電気自動車?、定置型電池? それとも住人か。
いずれでもあり、いずれでもない。
あえていえば全体統合制御装置であろうか。だが、この装置はエネルギーを生むわけでも、変換するわけでもない。単なるCPUである。
ホンダスマートホームの主役は、少なくとも住人ではない。住人は、「こんな劇が見たい」とチケットを買い、観劇するだけの存在だ。指揮棒を振るわけでも、演技指導をするわけでもなく、ただ見ているだけである。
ホンダスマートホームの主役は住人ではない。そして、中心的機器も存在しない。どの機器も主役であり、どれもが脇役であり、それは時々の環境で決定される。しかも環境は瞬時に変化するので、つぎからつぎへと主役が変わる。
同じことは、トヨタ式のハイブリッド車にもいえる。この自動車には中心がない。そしてドライバーから自動車を操ることの一部が奪われている。ドライバーは右足でアクセルを踏むみ信号を出すだけであって、エンジンを働かせるのか、モーター/バッテリーを働かせるのか、発電機を働かせるのか。その判断も操作もできないのだ。ここでは、ドライバーは運転から疎外されているといってよい。
こうして主役なしで劇を進行させることこそが、トヨタ式ハイブリッド車の最大の特徴である。そして、それが他の国の自動車メーカーに対する優位性であり、(良い意味で)ガラパゴス性でもある。
これに対して、ホンダ式はきわめて単純である。わかりやすいハイブリッドシステムだ。主役はエンジン。脇役はモーター/発電機とバッテリー。主役のエンジンが不得意な演技を脇役が助ける。
ホンダ式を理解するには、モーターは切り替えると発電機になるということと、主役のエンジンは無駄なアイドリングをすること、低回転で力が弱く燃費も悪いことを知っておく必要がある。
車両が停止しているときには、エンジンは停止している(アイドリングストップ)。
アクセルを踏むとエンジンが始動し、さらにバッテリーの電気でモーターが回り、エンジンを補助する。
それ以上の加速や、一定のスピードで走るときはエンジンのみ働く。
減速するときには、モーターが発電機に変身して、車両の持っているスピードのエネルギーを電気エネルギーに変換してバッテリーを充電する。
こうして蓄えた電気でスタートのときにモーターを働かせる。自分で作ったエネルギーを使いまわすのだ。
これに対してトヨタ式ハイブリッドシステムは、大変に複雑である。容易にはその全貌を明かさない。そして、分かりにくさの原因は中心がないことだ。
アイドリングストップから発進するところまではホンダ式と同じだが、ここでエンジンが始動するとは限らない。バッテリーに電気が溜まっている、あるいは車速が低い、強烈な加速をしないという条件がそろうと、その条件が崩れるまでエンジンは始動せず、バッテリーの電気でモーターを回して発進し、加速する。
これは、エンジンで発進するのか、モーター/バッテリーで発進するのか、エンジンで加速するのか、モーター/バッテリーで加速するのか、ドライバーには決定できないということである。ドライバーは主役の座から引きずり降ろされるのだ。
つまり、発進・加速の主役はドライバーとも、エンジンとも、モーター/バッテリーとも限らないのである。主役がいない舞台がしずしずと進行するのだ。
加速が終わって一定のスピードで走ると、エンジンはタイヤを駆動するだけではなく、余裕があればモーターとは別の独立した発電機を回してバッテリーを充電する。ただし、このときエンジンはもっとも効率の良い回転数で回す。さらに、場合によってはエンジンを停止してしまう。
この場面でも、主役ははっきりしない。もちろんドライバーに決定権はない。エンジン、モーター、発電機、バッテリーが次から次へと舞台に現れて、誰かが誰かをサポートして舞台が進行するのである。互助、助け合い、絆といった日本的精神が主役といっても良いだろう。
減速の場合は、ホンダ式と変わらない。車両の持っているスピードのエネルギーを発電機を働かせてバッテリーを充電することで吸収し、スピードを低める。
この場合は、少しばかりドライバーが決定権を持てる。機械式ブレーキと電気を吸収して減速させる回生ブレーキが協調して車両を減速させるのだが、どれだけ減速するかは(加速と同様に)ドライバーが決定できる。ただし、機械式ブレーキと回生ブレーキの案分にドライバーは関与できない。
では、あえて主役は誰なのかと問えば、エンジン、モーター、発電機、バッテリーを統合制御するコンピューターである。
では、このコンピューターの制御コンセプトは何か。もちろん効率である。もっとも効率が高まるように上記のパーツをコントロールするのだ。
トヨタ式ハイブリッド車は、効率というカミにコントロールされているといってよい。そして、そのカミはCPUの中に隠れて姿を現すことはない。
ホンダ式ハイブリッドシステムは、エンジンの短所をモーター/バッテリーで補助するのみである。では、エンジンを制御するのは誰か。ドライバーである。アクセルペダルを踏むドライバーの右足がエンジンを支配下に置く。
トヨタ式ハイブリッドシステムではどうか。エンジンを制御するのはドライバーではない。効率という名のカミである。カミの指示によって、エンジンは停止し、回転し、回転数やトルクを変え、モーター/バッテリーの援助を受ける。
エンジンは車速と無関係に回転数を変える。場合によっては、エンジンは舞台から姿を消されてしまうのだ。消すよう指示するのはコンピューターである。ここにドライバーは関与できない。
ところで、CVTという変速機をご存じだろうか。自動車評論家に嫌われている変速機だ。
中には「亡国変速機だ」という自動車評論家もいる(私だ)。運転してまったく楽しくないし、それどころかだんだん腹が立ってくる。CVTは自動車の楽しさをスポイルしてしまう。
わざわざ楽しくない自動車に仕立てる必要はないだろうと思うのだが、自動車技術者は大好きである。
CVTはコンスタント・ベロシティ・トランスミッション=無段変速機である。車速に応じてエンジンの回転数が変わるわけではない。あるいはエンジンの回転数が上がれば車速も上がるわけではない。エンジンの回転数と車速は無関係である。
たとえばエンジンがブンブン回っているのに車速が上がらない時もあれば、エンジンがシーンとしているのに車速がどんどん上がるときもある。
その結果、ドライバーは何を頼りに生きていけばよいか、いや、いや、運転すればよいか分からず、強い精神不安定状態に陥ってしまう。
しかし、効率好きな自動車技術者は、そんなことはいっさいお構いなく、つぎからつぎへとCVT車を設計し、企画者は市場に投入している。自動車にとって最大の価値は効率の高さである。ドライバーは黙ってアクセルを踏み、効率神にひれ伏せとでもいいたげである。
自動車離れが進み、あたふたしているのだが、その大きな原因がCVTだと気づいているメーカー関係者は皆無である。
CVTは、ヨーロッパの自動車メーカーは決して採用しない。理由はドライブフィールの悪化であり、ドライブの楽しさを奪うからである。
CVTに替えてヨーロッパメーカーが採用したのが、メカニカルAT、機械式自動変速機=DCTだ。これはいい。とても楽しい。CVTは運転すると疲れて、やる気を失うが、DCTはますます運転したくなり、元気が出る。
自動車における最大の価値は効率であるとCVTにひたすら固執する日本の技術と、自動車の価値は操る人間をいかに喜ばせるかにあるとCVTを強く否定し、DCTを採用するヨーロッパの技術の違いは何か。
これについて語ると1冊の本になるのでやめるが、人間至上主義か、それとも効率至上主義か、お客様を大切にしているのか、それとも効率なるカミに支配されているのかの違いである。
トヨタ式ハイブリッドシステムに弱点があるとすれば、CVT的機能を使うことだろう。ホンダもCVTを使うので同じであるが。
この方式は、確かに効率は最高だが、ドライブフィールを低下させてしまい、トヨタ式ハイブリッド車をいまひとつ好きになれない人たちを作ってしまっている。
トヨタ式ハイブリッドシステムは、中心を欠いた日本の精神構造そのものでもあるのだが、その話は別の機会に本にまとめよう。もし興味があれば、河合隼雄氏の「中空構造日本の深層」(中公文庫)をお勧めする。
ヨーロッパ精神は、強固な中心と権威を要求する。その背景にあるのが一神教である。
これを自動車に敷衍すると中心をエンジンに置き、それを絶対的に人間=ドライバーが支配するという精神構造である。したがって、エンジンのフィーリングをスポイルしてしまうような変速機=CVTは 中心=神に対する冒涜と考えるのだ。
このことをCVT嫌いの人たちに援用すると、彼らは(私もそうだ)は、エンジンなる中心神に支配されたいのである。CVTがエンジンとタイヤの間に介在すると、支配される喜びに浸れないのだ。えっ、それってマゾじゃないのかってか。その通り。
一方、多神教である日本(アジアも)では、中心はぼやけている。あるいは中心は空虚である。その周囲に配置されたカミガミによって構造を保つ。ホンダスマートハウスがそうであり、トヨタ式ハイブリッドシステムがそうなのだ。
もし、ヨーロッパ勢がこれらを作ろうとすると、一神教である彼らは大変に苦労するだろう。日本名産、国宝である。
だが、多神教的トヨタ式ハイブリッドシステムはヨーロッパでは苦戦するだろう。一方、日本市場では大変に受け入れやすく、よく売れるのである。
これは、これから登場する中心を欠いたスマートハウスも、日本ではスムーズに受け入れられるであろうことを示している。
だが、幾百万のコンピューターが何千万という人々のエネルギーを管理し、そこに私たち生身の人間は関与できないというスマートグリッドは、たとえスムーズに受け入れられたとしても、奇妙にして引き返すことのできない22世紀的社会を出現させることは容易に想像できる。
さて、レクサスGS450hの試乗記である。大変に良くできたハイブリッド車であり、これまでのハイブリッド車の中でもっとも洗練されていた。そして、恐ろしく速かった。CVTでなければなあと、しみじみ思った。
文:舘内端
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