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舘内端の「自動車の力」:第14回「すべからく隗より始めよ」
「吉田秀和・高橋由一・自動車評論家の私・自動車メーカー」
すべからく隗より始めよ
日曜日の朝は早い。6時に起きて近くの井の頭公園まで走る。ツツジと紫陽花がきれいだ。7時には公園内の居酒屋が開くので、おでんで一杯やる。家に戻ってからは読書。今はジャレド・ダイアモンドの「文明の崩壊」の「上」を読んでいる。
全部、ウソだ。そうなると嬉しいという願望である。
それはともかく、ほんとうは8時に起きる。起きてNHK Eテレを(たまたま)点けると、“日曜美術館”である。身を半分切り取られた「鮭」のなまなましい油絵で有名な“高橋由一”を取り上げていた(12.06.10)。
一方、先月には吉田秀和が亡くなった(5月22日)。ご存じの音楽評論家である。というか、音楽評論の第一人者であり、開拓者である。
今回は、この二人と自動車評論家の私と自動車メーカーという4大話である。結論は“隗より始めよ”だ。
まずは吉田秀和である。私は氏のことがずっと気になっていた。自動車評論家の隅っこにいる私は、評論なるものはいかにあるべきかと考えているのだが、吉田秀和はそのヒントをお持ちではないかと思っていたのであった。といっても、朝日新聞の連載を読むのと、「私の時間」というエッセイ集が手元にある程度で、とてもファンとはいえない。
しかし、亡くなられたのはとても残念である。いや、いや。残念なのは、私ではなく多くの氏のファンと音楽関係者と、氏によって音楽の道を進むことができた世界的指揮者の小澤征爾であり、同じく世界的ピアニストの中村紘子であり、チェリストで桐朋学園大学学長の堤剛など、多くの指揮者、演奏家ではないだろうか。
とくに上記の3人は、1948年に吉田秀和が開設した「子供のための音楽教室」の一期生であったので、悲しみも深いことであろう。ちなみに、子供のための音楽教室は、後の桐朋学園音楽部門の母体となった。また、1957年には「二十世紀音楽研究所」を設立している。さらに水戸芸術館の館長も務められた。
何がいいたいのかというと、吉田秀和は音楽評論だけではなく、音楽文化装置の創造にも心を砕き、活動されたということなのだ。評論家たる者、のほほんと文章だけしたためているのではお勤めも半分である。この点に関しては、作家の丸谷才一が強調している(朝日新聞 12.05.29)。
丸谷は、批評家の責務として次のように述べている。「批評家は二つのことをしなければならない。第一にすぐれた批評文を書くこと。そして第二に文化的風土を準備すること。この二つをおこなつて(原文そのまま)、はじめて完全な批評家となる」と。
第二の「文化的風土を準備すること」については説明が必要だろうと丸谷も述べているが、私の言葉でいえば上記のように「音楽教室」を創設したり、管弦楽団を創ったり(水戸室内管弦楽団)、上記のように研究所を設立したり、オペラを招聘したり(ベルリン・ドイツ・オペラ)….といった活動を指す。教育と普及活動も、批評家・評論家の大事な役目であり、それなくして批評家とも評論家ともいえないということである。
さらに私の言葉をつけ加えれば、戦後のまだ文化的風土が育たず、クラッシク音楽を聴く人たちも少なく、聴こうにも音楽会は少なく、演奏者も少ない時期に、音楽を批評するには、まずは音楽家を育て、学校を設立し、音楽会を主宰し、音楽にかかわる人たちを指導することが必要だったのではないだろうか。経済論的にいえば、(文化的)需要を掘り起こしたということになるだろうか。これも評論家の仕事なのである。
丸谷は、「このような努力をおこなふ(原文)ことによってはじめて、その批評家の主張は社会に浸透し、現実化するのである」と加えている。つまり「隗より始めよ」である。
次は高橋由一である。生まれは江戸時代末期の江戸である。日本最初の洋画家といってよい。それだけに油絵具の調達から始まって、画法の研究などパイオニアとしての苦労は並々ならぬものであった。
しかし、最大の難関は、油絵=洋画なるものの普及と啓発ではなかったろうか。当時の日本=江戸時代には、もちろん洋画は存在しなかった。しかし、その魅力に憑りつかれてしまった高橋由一は、描きたくてしかたがない。だが、だれも洋画の魅力を理解できず、周りに仲間も支持者もいない。経済論的にいえば、洋画はまったく需要のないものだった。いわば不用なものであった。
そこで彼は画塾の「天絵舎」を創設する。そして多くの弟子を育て、教育するのだ。さらに洋画の需要は自ら創出する。明治14年、ときの山形県令であった三島通庸を、数々の土木工事の記録絵を洋画で書き留めておくよう説得したのであった。というのも県令の三島は、赴任した多くの県で土木工事を行い、成果を上げていたのである。ここを見抜いて、三島を説得し、いまでいう地方自治体の補助金事業を請け負ったというわけだ。
芸術家・アーティスト・創作家たるものも、アトリエにこもっているだけではなく、世に出て、弟子を育て、世の中を教育し、わが創作物の理解を促進しなければ、自分の作品は普及しないというわけである。
とくに芸術は「見たことのないもの」でなければならず、それは高橋由一の日本最初の洋画と同じなのである。自ら普及・啓発活動が必要なのだ。つまり「隗より始めよ」である。
次は自動車メーカーである。いま、自動車は第二の創世期を迎えているというのが私の持論である。高橋由一が経験した江戸末期の洋画状態とはいわないが、すくなくとも吉田秀和の遭遇した戦後の音楽状況ではないだろうか。自動車なる存在をもう一度、世間に広めなければならないときなのだ。普及・啓発活動が必要だ。
自動車が存在しない時代があった。カール・ベンツとゴットリーフ・ダイムラーが自動車を発明する以前の社会だ。年代でいえば1886年以前である。洋画でいえば、江戸時代末期以前だ。
だが、洋画はなくとも日本画があったように、自動車はなくとも馬車はあった。そんな時代にドイツの小さな町に忽然とエンジン付き馬なし馬車が現れた。第一次自動車創世期の始まりである。
日本に鉄道が開業したのは明治5年(1872年)である。まだチョンマゲを結っていた人たちは、もくもくと黒煙を吐き、蒸気の白い煙をまき散らす蒸気機関車にさぞや驚いたことであろう。
かごよりも速く、遠くへ行ける蒸気機関車は、あっというまに受け入れられた。いや、その利便性で受け入れられたという実用主義的・合理主義的解釈は危険であり、陳腐である。それよりも、当時の文明開化という空気を蒸気機関車が体現していたことが、普及の第一要因ではないだろうか。つまり、蒸気機関は日本の未来を拓き、良き時代を招来し、幸せを運ぶ青い鳥だと思ったということだ。
やがて自動車は大量普及時代を迎える。1908年に発表されたT型フォードは、19年間でなんと5000万台も売れた。世界最初に自動車に夢を描いた米国のモータリゼーションの始まりであった。
日本はどうだったか。日本もヨーロッパも、本格的なモータリゼーションの始まりは戦後のことであった。それまで、自動車はほとんどなかった。自動車は大衆が強く求めたのであった。普及させるのに何の努力も必要なかった。いや、むしろ玉不足であった。作るところから自動車は売れた。
そうした意味で、日本の自動車メーカーは、自動車の普及・啓発活動を未経験なのである。自動車なる存在は初めからあって、マーケットは小鳥のように口をあんぐりと開け、自動車を待っていた。ただ生産すればよかった。自動車メーカーは、苦労せずに普及させることができた。ただし、自動車の開発には並々ならぬ苦労があったのだが。
では、現在はどうか。まさか自動車を知らない国民はいないだろうが、国民がみな口をあんぐりと開けて自動車が来るのを今か今かと待っているわけではない。むしろ、自動車なるエサはすでに腹いっぱい食べてしまって、満腹なのである。飽和状態のマーケットにどうやって自動車を売るのか。自動車メーカーは、50年から60年の歴史の中で、初めて自動車の普及・啓発をしなければならなくなった。「自動車の免許を取ろうよ」と。
いまさら「自動車は楽しいものです」、「免許を取ると楽しい自動車生活が待っています」などといわなければならないのは、自動車メーカーがつまらない自動車と貧困な自動車生活しか提供して来なかったからである。こんなことをTVのCMでいわなければならないのは、ほんとうにどうしようもない末期症状だ。
それはともかく、自動車メーカーが「免許を取りましょう」とCMを打つのは、まさに自動車の普及・啓発活動である。洋画は美しいです。音楽は楽しいです….と、高橋由一が、吉田秀和が普及・啓発活動をしたように。
しかし、自動車販売には普及・啓発活動が必要だと多くの自動車メーカーは気づいていない。まさか自動車にそうしたことが必要だとは、ゆめゆめ思ってはいないだろう。しかし、そういうことなのだ。
気づいているのは、トヨタである。だが、歴史始まって以来の初めての普及・啓発活動は、“86”の復活に見られるようにどこかアナクロニスティックでぎこちない。
では過去に、こうした経験はなかったか。ある。スポーツカーの普及の失敗である。
自動車の普及・啓発経験がない自動車メーカーは、スポーツカーの普及に失敗した。その原因は、上記の丸谷才一の引用の第二番目の項目に該当する。つまり、スポーツカー文化の創造である。スポーツカー的文化を持たない日本においてスポーツカーは、黙っていては売れない。文化装置を構築しなければならない。
スポーツカー・スクールを設立し、スポーツカー好きな人たちとインストラクターをたくさん育て、スポーツカー会館を建設し、あまたの(ヨーロッパ製)スポーツカーを展示し、スポーツカー評論家の第一人者を館長に据え、スポーツカー大会を主催し、数々のスポーツカー賞を設け、スポーツカー雑誌と単行本を発行し、多くのライター、評論家を育て….。
日本にスポーツカー・マーケットはほぼゼロである。つまり日本においてはスポーツカーは不要なのだ。だから作らない、売らない、生産を中止すると自動車メーカー首脳はいうのだが、中止を決定した経営会議で行われた論議は(最近も某メーカーで行われたらしい)、実に浅薄だったはずである。彼らは、自動車も知らなければ、マーケットも知らない。いや、いや。人間を知らない。ましてや、そうしてスポーツカーを作らず、売らなかった結果が、今日の自動車離れの原因であり、そのためにどれほどこれから苦労するのかなどと、知る由もないだろう。なぜなら自動車とはつまらないもの、しかたないので買うもの、安ければ買うものとの意識づけをしてしまったのが、スポーツカーとはかけ離れた乗用車の群れなのだから。
自動車メーカーは、初めて吉田秀和について、高橋由一について、学ばなければならなくなった。
では、自動車評論家舘内端はどうか。おわかりだろうが、とてもとても吉田秀和にも高橋由一にも遠くおよばない。
それはともかく、なぜ日本EVクラブを主宰しているのかということは、その設立当初から疑問であった。設立から今年で18年目である。で、それを問われると「神の啓示」ですとわかったようなことをいっていた。いや、けっしてウソというわけではない。そう思うことも確かなのだ。
しかし、神様がそういったからといっても、自動車評論家が果たして電気自動車の普及・啓発活動をしてもよいものなのか。それは自動車メーカーや行政が行うものではないのか。自動車評論家は評論の文章を書いていればよいのであって、よけいなことをやるなとお叱りを受けないだろうか。と、そんな疑問が頭の奥底に澱のようにたまっていたこともまた確かなのだ。
だが、吉田秀和も高橋由一も丸谷才一も、「そうではない」という。評論家が評論家であるためには、文章を書くと同時に文化装置を構築しなければならないという。私は、どうやらまちがってはいなかったようだ。
かつてモータースポーツの世界で、同じような普及・啓発活動をしてことがあった。SREである。
SREとは、Society of Racing Engineersの略である。1974年にレースカーの勉強会として発足し、私が代表となった。月一回の勉強会は、私が勤めていた鈴木板金=ベルコレーシング近くの横浜市保土ヶ谷市民会館で勤めの終わった夜に開いた。富士スピードウエイ近くのガレージでレースカーの整備をしていた多くのメカニックが東名高速道路を飛ばしてやってきた。
講師は、私と同僚の熊野学が務めた。ワープロもない時代であった。鉛筆で書いたテキストをコピー屋でコピーした。金属材料学、熱処理学、材料力学、空気力学、自動車性能論、サスペンション論、操縦性安定性などなど、毎回のテキストを集めれば1冊の分厚いハンドブックになるほどであった。後に講師を務めていただいた某自動車メーカーの主査が、目を剥いた内容だった。
ここから多くのエンジニア、設計者、メカニックが育っていった。たとえばホンダの元F1監督、研究・開発会社の社長、レースカー製造の社長、モータースポーツ・ライター、評論家などである。ちなみに日本EVクラブ設立の礎となった電気フォーミュラーカーの電友1号を製作したのは、SREの卒業生であった。
しかし、排ガス規制に対応すべくニッサン、トヨタを初めとして自動車メーカーがモータースポーツから撤退すると、サーキットは閑散とし、私たちの仕事は激減した。
自動車メーカーに強く依存したモータースポーツの姿は尋常ではない。自動車メーカーに依存せずに成立するモータースポーツをめざしてフォーミュラーSREを製作した。私たち自身がモータースポーツの新しいカテゴリーを創造し、そこで使われるレースカーを設計、生産し、整備することで生業としようという意図であった。
やがてフォーミュラーSREは、JAFのフォーミュラー・ジュニアー=FJとして公認され、最終的に1000台以上の保有台数となり、多くのコンストラクターを生み、たくさんの仕事を作り、多くの人材を育て、やがて片山右京という稀有のF1ドライバーも生むことになった。
モータリゼーションは、大量生産車の動向を5年から10年先取りするというのが持論である。モータースポーツに現れた現象は、5年から10年後に生産車業界に現れる。
日本のモータースポーツ熱は、94年5月にアイルトン・セナが事故で亡くなると、急速に冷めていった。それに追い打ちをかけるようにバブル経済が崩壊し、さらにモータースポーツ人気は陰っていった。
それから10年。モータースポーツの瓦解は、生産車におよんだ。自動車離れの始まりであった。自動車からも、モータースポーツからも、人々の関心は失われていった。
急速に失われたモータースポーツに対する関心を呼び戻すべく、関係者はモータースポーツの普及・啓発活動を始めた。メーカー自身の手になるドライバー育成スクールの開校、さまざまなドライビング・スクールの開校、イベントの開催等々である。また、新しいレース・カテゴリーも興した。
そうしたモータースポーツにおける普及・啓発活動の開始から10年。今度は生産車の業界で普及・啓発活動が始まったのである。
自動車評論家も座して死を待つのではなく、積極的に文化装置を構築する必要がある。さまざまなイベントの開催、ドライビング・スクールにおける講師の請負、新しいメディアの設立等々、多くの自動車評論家が行っている。
過度の自動車メーカーへの依存体質からの脱却。これは自動車評論の健全化と質の向上に必ずつながる。また、自動車雑誌、モータースポーツしかりである。隗より始めよ。自分のことは自分でやろうではないか。
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