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舘内端の「自動車の力」:第20回「トヨタとカローラを斬る その2」

「トヨタとカローラを斬る その2」


トヨタとカローラを批評しずらいのは、いずれも大衆から圧倒的な支持を受けていることである。そして欠点が見つけにくいことだ。この現代において、大衆がよしと認め、欠点が見つからないものを否定するのは評論家として自殺行為だ。

しかし、いかに大多数の人々がカローラを支持しようと、私にはカローラはたくさんの問題を持っていると映る。

カローラが大衆の要求を受け入れて造られているということであれば、カローラの問題とは大衆の問題である。現代の大衆社会の問題ということができる。そして、大衆社会は問題を持っていると私には思えるのだ。

ということで、カローラを斬るには大衆社会なる現代社会に刃向わなければならない。荷が重い。

大衆社会が成立するには、2つの条件をクリアーしなければなるまい。

ひとつは、大衆社会を支える経済力である。経済が発達し、それを支える産業が発展し、物流が盛んであることが条件だ。もうひとつは、大衆社会を認める思想である。

歴史上、何度か経済が興隆したことはあるだろうが、近代の産業革命はまた格別である。その名前のとおり、革命的な産業の興隆と、その結果としての経済の発展と、モビリティの拡大をもたらせた。

これまでのモノ作りとはまったく異なる方法によるモノ作りが始まったのだった。それは、人力、動物力、自然力以外のエネルギー=石炭で機械を動かしてモノを生産するというものであった。やがてこの新しいモノ作りに大量に同じモノを作るという大量生産が加わり、経済は驚異的な発展を遂げた。

地方から都市に労働者が集まり、都市は拡大し、経済を発展させた。要約すれば、そこに生まれたのが大衆であった。大衆社会とは、産業革命が生んだ新しい社会のあり方であるといってよいだろう。

自動車における良い例は、T型フォードの誕生と大量販売である。フォード社の創立者であるヘンリー・フォードは、T型フォードの販売拡大を狙って、T型を生産する工場の労働者の賃金を上げた。その結果、T型フォードを生産する労働者がT型フォードを買うことができた。ヘンリー・フォードは生産者と消費者を結びつけ、自動車の大量普及に成功し、大衆ユーザーを生んだのであった。

大衆社会誕生の要因は、経済の発展だけではない。大衆が社会の実権を握ることを承認する価値観=思想の浸透が必要であった。

大衆社会とは、多くの人々が平等であることと、自由に生きる権利を認められている社会であろう。そして、その権利を確実にするために、大衆が政治権力を掌握していることが必要である。

大衆社会とは、自由で、平等な大衆が、そのように生きる権利を実行するにあたって、政治権力を握っている社会である。

それを保障するシステムとして、自由選挙があり、三権分立があり…..といった現代社会のルールが確立されているのである。

では、人間は自由にして平等に生きる権利を持っているのかというと、そうではない社会の歴史が長かった。かつては、人間は不平等であり、それが当たり前であった。こうした不平等社会に終止符を打ったのが、18世紀から始まる人権思想運動であった。

「人権」の歴史は古い。18世紀のルソーやヴォルテールらによる啓蒙思想から始まり、やがてアメリカ独立宣言やフランス人権宣言によって実際の権利となった。

現在では、一部の独裁国家を除いてすべての国家で人権は認められている。また、国連は1948年に世界人権宣言を行っている。かくいう日本では明治初期から福沢諭吉らによって主張されている。

アメリカの独立宣言は、いうまでもなく宗主国の英国からの独立を宣言するものであった。1776年7月4日のことである。

それから13年、1789年7月14日にフランスで革命が起こる。現在では、7月14日はパリ祭としてフランス全土で祝われている。

この日、蜂起した民衆が、政治犯が囚われていたバスティーユ監獄を襲撃、これを契機にフランス革命が始まる。それまで国民の頂点にいたルイ16世は処刑され王政は廃止された。

人権を宣言することになった2つの革命は、抑圧からの解放をめざして起きている。片や宗主国であった英国の圧政から、片やフランスはブルボン朝の絶対君主制からの解放をめざしたものである。強力な権力者から国民・市民が権利を奪ったものであった。

フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の精神は、民主主義の土台となり、国民主権、人間の権利が明らかとなったといってよい。やがて産業革命が興って経済力をつけた大衆が生まれるのであった。

英国を初めとするヨーロッパで起きた産業革命は、雇用を生み、経済を拡大させ、大衆の生活を向上させていった。大衆社会の思想と経済の基盤が確立されたのであった。

だが、本当に大衆社会が先進国に広がるには、2つの世界大戦を経ねばならなかった。第二次大戦後、いまでいうところの先進国に大衆爆発が起こった。

こうした大衆社会の誕生と成長を側面から支援したのが、自家用車の普及であった。上記したように1908年に発表されたT型フォードが始まりであった。発売から19年間で1500万台も売れたのであった。米国では20世紀初頭に早々と大衆モータリゼーションが始まったのである。

ところで、本来、本当に人間は自由であり、平等なのであろうか。近代以前は、王がいて、家来がいて、臣民がいて、奴隷がいるのがあたりまえだったのだから。

人権が生来的な権利であるとすれば、それを証明しなければならない。そのひとつが、天賦人権説である。人間は生まれながらに自由、平等で、幸福を追求する権利を持っているというものだ。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家によって主張され、アメリカの独立宣言、フランス人権宣言で具現化された。日本では、福沢諭吉、植木枝盛らによって主張された。

たとえば米国の独立宣言には以下のことが列記されている。それは、

「我々は、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。このような権利を確保するために、政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する。」

である。

浅薄な論理をかざせば、たとえ上記であったとしても、私には人権とは「生まれながらのものとしようよ」と、多くの人々が承認したことで生まれたと思える。

そうであれば、ある人は「生まれながら人間は不平等である」と主張することもある。国によっては、「独裁をもって本来の国のあり方である」とする場合もあり、「ホメイニ師をもって国の代表とする」場合もあり、それらの主張はいずれも平等であると思えるのだ。

それにもかかわらず、民主主義をもって絶対のあり方とし、それ以外の方法によって統治される国では人民の人権が守られていないと、その国に侵入し、武力をもって民主政権なる政権を打ち立てる国=米国もある。

何がいいたいかというと、大衆社会が正義とは限らないのではないか、ということだ。

簡約すれば、民主主義のベースとなったのはフランス革命が掲げた自由・平等・博愛の精神であり、それは天賦人権説に基づいているのだが、人権が天賦の権利でないとすれば、民主主義の根幹が崩れるわけである。

大衆社会は、民主主義と産業主義による経済の発展をベースにした新しい社会のあり方である。とすれば、その根幹の一つである民主主義が怪しくなれば、大衆社会も絶対の社会のあり方とはいえなくなる。

そこまで掘り下げなくとも、大衆社会が絶対の社会のあり方でないことは自明の理であり、さまざまな問題を内包していることも明らかである。

また、産業主義もさまざまな問題を持っており、すでに脱産業化社会に進んでいるといわれている。

ということで、冒頭に戻ろう。

冒頭で、トヨタとカローラの批評には困難が伴うといった。その理由は、大衆に圧倒的に支持されているからだ。しかし、大衆に支持されていれば正しいとはいえないということが分かった。

しかし、日本は大衆社会である。しかも典型的な大衆社会である。ここから逃げるわけにはいかない。

大衆社会における批評の立脚点は、大衆社会に対する疑問を提示することである。大衆社会における批評とは、自分が寄って立つ大衆社会を批評することなのだ。

したがって、大衆に圧倒的な支持を受けている人、モノをこそ批評の対象とし、鋭く批評すべきなのである。

いかに困難であろうと、自動車評論家を自負するのであれば、トヨタとカローラに鋭く対峙すべきなのだ。

で、カローラはどうなのか。

カローラはきめ細かなマーケティングによって作られている。これは大衆の要望をきめ細かに取り入れているということだ。それが大衆からの圧倒的な支持を得られている第一の要因である。大衆社会なくして、カローラは成立しない。

ということは、カローラは大衆社会の良い所と問題を多く持った自動車だということになる。

では、大衆社会はこれからもそのままなのか。それとも変わろうとしているのか。もし、変わろうとする力が強いのであれば、カローラは安泰ではない。

私には、問題の多い大衆社会は、大衆によって大きく変わろうとしていると映る。

カローラを批評するとすれば、その根拠と論点は、この一点にある。つまり、私たちは大衆社会とどう向き合うのかということを根拠として、カローラは大衆社会とどう向き合おうとしているのかを問うことである。

残念ながら、新型カローラには、大きく変わろうとしている大衆社会の胎動を受け止め、社会を変革しようという意志は感じられない。いや、むしろ現在の大衆社会を全面的に肯定し、大衆社会に添い寝していると映る。

ここで、柳宗悦の民藝運動に関して述べている中沢新一氏の言葉をお届けしよう(野生の科学 講談社)。

「人間は道具を介して、世界に働きかけをおこなう生き物です」。

「人間は道具を使って、この世界に働きかけをおこなうというやり方で、世界に変化をつくりだそうとする特殊な「世界内存在」です」。

「農具や日用品のたぐいは、じっさいの耕作や漁労や日常生活の場面に介在して、じっさいの行為に用いられ、世界に働きかけをおこない、人間と環境を一体とした世界に変化をつくりだそうとする道具です」。

さて、カローラは世界に働きかけ、よりいっそう平和で、心地良い社会を建設する意思を持った道具=自動車であろうか。

カローラは、確かに大衆の望むところをよく捉え、具現化しているが、しかし、残念ながら上記の意志を感じさせる自動車ではないように思える。

だが、カローラには無限の可能性がある。製作者が世界にきちんと対峙する意思を持てば、カローラは「カローラ」であることから脱却できる。それは、大衆社会の可能性を探ることでもある。

このことについては、機会を改めて述べよう。

文:舘内端

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